ゴッドマザー写真.JPG
2009年、新しい年になって、一ヵ月半が過ぎた。いつもの常連さんは、今年も変わらず、いつもの席で、いつものように一人だ。唯一変わったのは、ウイスキーのソーダ割りを“ハイボール”という名前で、注文するようになったことぐらいである。
「マスター!」と角の席から声がした。
『はい!何でしょう?』
「ハイボール!お代わり!」
『はい!今日は、いつもよりピッチが早いんじゃないの?』
「だって、今年もマスターの相手をしないといけないと思うとね。」
『言うよねぇ!それは、こっちの台詞です!』と返して、ハイボールのお代わりをつくろうとしていたときに、扉の開く音がした。

『いらっしゃいませ!』と扉の方へ声を出した。
「お久しぶりです・・・。」と言いながら一人の女性が入って来た。
『あぁ。ホントですね。お久しぶりです。どうぞ、お好きなところへ』とご案内した。
「二年ぶりかしら・・・。」
『もう、2年経ったんですね。ところで、何にしましょうか?』
「じゃぁ、あの頃よく飲んでいたのにしようかな・・・。」
『かしこまりました。』と返事をして、あの頃お出ししたカクテルを思い出しながら、バック棚からアマレットのリキュールと冷凍庫からウオッカを出してカウンターの上に並べた。そして、ハイボール用のウイスキーも取り出した。

アマレットは、アーモンドをしのばせる甘い香りのリキュールだが、主原料になっている杏の核が芳香成分となっている。
さて、カクテルをつくることにしよう。ロックグラスに大き目の氷をひとつ入れ、ウオッカとアマレットを注ぎ、バースプーンでステアすると出来上がりだ。いたってシンプルで簡単なカクテルではあるが、そんなに弱いカクテルでもない。

『はい!どうぞ。“ゴッドマザー”です。』と言って、その女性の前のコースターの上に静かに運んだ。それから、ハイボールのお代わりをつくり、角の席へ運び、その女性の前に戻った。
「そう、これでしたね。」と声が聞こえ、小さい手でグラスを持ち、口まで運んだ。
「美味しい!この甘さと香りがなつかしい・・・。でも、意外と強い・・・。」
『そうですね。女性に人気のあるカクテルなんですけど、そんなに弱くはないですよ。』
「ですね・・・。あの頃と比べたら少し弱くなったみたい・・・。」
と話した後、しばらく静かな空気が流れ、耳には、ヘレンメリルの“YOU'D BE SO NICE TO COME HOME TO”が聞こえてきた。ちょっとハスキーな歌声がなんともいえないこの場の雰囲気を作り出してくれている。
そして、また女性から声が聞こえた。

「マスター。あの頃、このカクテルにいっぱい元気をもらいました。ちょうどバツイチになったばかりで・・・。」
『そうでしたか。“ゴッドマザー”という名前が、元気をくれたんですね。』
「はい。それと、マスターがたくさん愚痴を聞いてくれたお陰です。」
『聞き役も、バーテンダーの仕事のひとつですから!』
「それに、二年という時が、鍛えてくれたし、下の子も中学生になって、やっと落ち着くことが出来て、ここにも来れるようになり、お礼も言いたくて・・・。」
『お礼だなんて・・・。ただカクテルを選んで、お話しを聞いただけです。バーテンダーとして当たり前のことですよ。』
「そうであっても、私にとっては・・・。」と声がしたあと、残りのカクテルを飲み干した。そして、また女性の口が動いた。
「ここに来ると、元気になれるし、辛いことも忘れることが出来ます・・・。美味しかった!また、おじゃましますね。」
『ありがとうございます。また、よろしくお願いします。』と挨拶をして、扉の外まで見送りをし、カウンターの中に戻った。
ロックグラスの中には、半分ほどに小さくなった氷だけが残っていた。それを片付け、常連さんの空のグラスも下げて、新しいハイボールを造つくり角の方へ運んだ。

「マスター!バツイチって、大変なんだね・・・。」
『結婚よりも、エネルギーを使うというからね。でも、彼女に限らず、みんな頑張ってるんですよ。あなたも頑張らないと・・・。』
「分かってますよ!でも、女性って強いよね。」
『そうね。強くなるんですよ。いろんな意味で・・・。』
「でも、何か寂しそうだった?」
『そんなとこまで、分かったの!でも、あなたの方がもっと寂しそうに見えるけどね。』
「だったら、何とかして下さいよ!」
『強くなろうね!』
「えぇ。。。」

マティーニ写真.JPG
『いらっしゃいませ!』と扉のほうに顔を向けた。いつもの常連さんが、何やらニコニコ顔で入って来た。
「マスター!明けましておめでとう。」
『おめでとうございます!今年もよろしくお願いします。ところで、何を浮かれた顔をしてるんですか?』
「それがね、お正月に初詣に行って、おみくじを引いたら“大吉”だったんですよ。」
『すごいですね。今年は良い年になったらいいね。で?何にしましょう!』
「もう、分かってるくせに・・・。いつものですよ。“ハイボール”」
『そうだったね。』と答え、バック棚からウイスキーを取り出し、ソーダ割りを作り、いつもの角の席のコースターの上に運んだ。
「ねぇ、ねぇ。聞いてよ!」と常連さんが話しかけた時に、また扉がゆっくり開き、一人の若い男性がなにやら、遠慮しがちな感じで入ってきた。
『いらっしゃいませ。どうぞ、空いてる席へ』と案内し、オシボリを渡し、コースターを置いた。
『何にしましょうか?』とたずねた後に付け足して、『メニューをお出ししましょう。』と言って、その男性に差し出した。
「あ、ありがとうございます。」と小声で答え、しばらく、メニューを見わたしていた。その間、いつもの常連さんの前に行った。
「未成年じゃないの?」と常連さんから合図があり、『違うと思うよ。』と合図を返した。

「す、すみません・・・。」と声が聞こえ、その男性の前に戻った。
『はい!お決まりですか。』
「マティーニを下さい。」
『マ、マティーニですね。かしこまりました。』
マティーニは、カクテルの王様と言われているもので、飲む人にも、造る人にもこだわりがあるカクテルだ。また、色んなエピソードもあり、マティーニだけで一冊の本が出来るぐらいなのである。イギリスの首相だったウィンストン・チャーチルは、執事にベルモットを口に含ませ、グラスに注いだジンに息を吹きかけさせて、超ドライなマティーニを飲んだとも言われている。

さて、今年最初のマティーニを造ることにしよう。まず、小皿にピンに刺したオリーブと丸く切り取ったレモンの皮を用意し、ミキシンググラスに氷を入れ、ベルモットを少し注ぎステアし、氷の角が取れミキシンググラスが冷えたらベルモットを捨てる。そして、ここからは手際よく、冷していたカクテルグラスを出し、ミキシンググラスにオレンジビタースを一振り加え、よく冷したジンとベルモットを注ぎステアする。カクテルグラスに注ぎ、オリーブを飾り、レモンピールを絞りかければ出来上がりだ。

『はい。どうぞ。』とその若い男性の前のコースターの上に静かに運んだ。
「こ、これがマティーニですね。」と呟き、一口喉に流し込んだ。
「き、キツイ、カクテルですね。しかも結構強いし・・・。」
『このマティーニは、“キング・オブ・カクテル”と言われているもので、辛口を代表するカクテルなんですよ。』
「ホント、大人の味ですね。僕には、まだこの美味しさが分からないや…。」
と言いながら、もう一口飲んだ。
『どうして、このカクテルを・・・。』とさり気なく聞いてみた。
「はい、実は、父が好きなカクテルなんです。いつも聞かされていたんです。
“大人になったらBARに行け”って“マティーニを飲んでみろ”って・・・。」
『そうですか。いいお父様ですね。でも、このカクテルの美味しさが分かるようになったのは、きっと、最近のことだと思いますよ。私も、初めて飲んだ時は、正直、美味しいとは思いませんでしたから・・・。』
「マスター。ありがとうございます。まだ20歳になったばかりの学生ですが、この街にいる間は、ここに通って、勉強することにします。」
『それは、嬉しいです! BARのファンが増えることは大歓迎ですよ。』
「マティーニが、どういうものか分かったし、今日はこれで帰ります。」
『ありがとうございます。実家にお帰りになった際は、お父様によろしくお伝え下さい。』
「はい、いいBARを見つけたと伝えます。」
と言って、入って来た時よりも、堂々とした感じで帰って行かれた。

カウンターの中に戻り、オリーブが残されたカクテルを片付け、いつもの常連さんの前に行った。

「未成年じゃなかったんだね。見かけも格好も若いし・・・。てっきり未成年かと思いましたよ。」
『あなたより、大人だったように感じたけどね。』
「ちょっと!僕より一回り以上も下なんだよ。彼は・・・。」
『今のあなたと同じ年頃になった時は、追い越されてますよ。きっと・・・。』
「それって、どういう意味なの!」
『素敵な女性と結婚してるかもよ・・・。』
「えぇ!だ、大丈夫ですよ!話しは戻るけど“大吉”だったんですよ。“縁談実る”て書いてあったもん・・・。」
『最後の神頼みですか・・・。』
「・・・。」

ハイボール写真.JPG
『12月になったね』
「ホント。一年、あっというまだったなぁ…。マスターには、いつもお相手をしていただき、ありがとうございました。」
『何を、かしこまってるんですか!』
いつもの常連さんは、いつも決まってカウンター角の席だ。そして、いつものウイスキーのソーダ割りを飲みながら、今年一年を振り返っていた。
「マスター!」
『どうしたんですか!急におきな声で…。』
「来年こそは、彼女を見付けますよ!それと、ウイスキーのソーダ割りから卒業して、カクテルにするから…。」
『まだ、今年も半月は残っているし、クリスマスというイベントもあるのに、もう来年のことですか!』と常連さんに返した時、扉が開いた。

『いらっしゃいませ!』と入口のほうへ声を掛け、一人の男性が入ってきた。団塊の世代だろうか、白髪交じりにメガネを掛けた素敵な紳士のように見える。
「いい感じの店だね。」
『あ、ありがとうございます。で、何にいたしましょうか?』
「そうだな・・・。“ハイボール”を一杯作ってくれ。」
『はい。ウイスキーは何にしましょう?』
「任せるよ!」
『かしこまりました。』と返事をし、バック棚を眺めながら考えた。

“ハイボール”か、久しぶりに聞いたような気がする。昭和30年代から40年代“トリスバー”や“サントリーバー”が全盛だった頃、ハイボールもその時代によく飲まれていたもので、ウイスキーのソーダ割りのことである。
正確には、炭酸じゃなくても、ジンジャーエールやトニックウォーターなどの炭酸飲料で割ってもハイボールなのだが、一般的にはソーダ割りのことさす言葉である。炭酸の泡が立ち上るところから名前が付いたとか。また、一説には、ゴルフ用語のハイ・ボール(高い玉)から付いたとか言われている。

さて、ウイスキーは、やっぱりこれだ。棚から角瓶を取り、冷していたグラスに大き目の氷を二つ入れ、ウイスキーを注ぎ、ソーダを満たして軽くステアする。
『はい!どうぞ!ハイボールでございます。』と、その男性のコースターの上に静かに運んだ。
「おう、出来たか・・・。」と声を出し、一口、喉に流し込んだ。
「美味い!角のハイボールか・・・。懐かしい味だ!」
『気に入っていただけたようで・・・。』
「しかし、角瓶で作るとはニクイネ。昔を思い出すよ・・・。」
『いい時代だったと思いますよ。活気に満ち溢れていた頃ですよね・・・。』
「その通りだよ。俺も若かったし、よくバーでこれを飲みながら女性を口説いてたもんだ。」
と笑いながら話しかけてきた。そして、店の中を見わたしながら、時おりハイボールを口にし、ひとりうなずいていた。
「マスター。もう一杯同じのをくれ。」とグラスが空になるのと同時に声がした。
『かしこまりました。』と返事を返し、二杯目のハイボールを作って、氷だけになったグラスと差し代えた。
「ありがとう。」と言った後に、二杯目を一気に飲み干した。
「これで帰るよ。マスター。」
『あ、ありがとうございます。』
「実は、娘に聞いてきたんだよ。一度行ってみたらというもんでね。」
『そうですか…。』
「いい店だ。今度、クリスマスにでも、家内とおじゃまするよ。」
『は、はい。お待ちいたしております。』と扉の外まで見送りをした。

カウンターの中に戻り、いつもの常連さんのことを忘れていたのに気付いた。とっくに空になっていたグラスも、氷も解けてしまっていた。
『すみませんね。今日はあまり相手できなくて…。』
「いいですよ。慣れてるし、でも、いまの男性の若い頃が羨ましいよね。」
『そうだね。今のあなたに似ているかも…。』
「ぼ、僕にですか…。」
『すぐに、女性を口説きたくなるところとか…。それに、飲んでいる物まで…。』
「えぇ。飲み物まで!僕はウイスキーのソーダ割りですよ。」
『同じなんですよ。ハイボールというカクテルは、ウイスキーのソーダ割りのことなんです。』
「そ、そうなの、何で、もっと早く教えてくれないんですか!カッコいい名前があったじゃないですか!」
『世代が違うしね…。』
「そんなの関係ないですよ!」
『はい、はい!わかりましたよ。』
「来年から、そのカクテルにしますからね。ちょっと、聞いてるの・・・。」
『・・・。』

ソフトランディング写真.JPG
今年も早いもので、あと1ヶ月余りで終わってしまう。なのに、いつもの常連さんは、相変わらずマイペースだ。
『今年もあと一月だよ・・・。どうするの?』
「どうするのって、出来ないものは仕方ないでしょう・・・。僕だってそれなりに頑張ってるんですよ!」
『そうなの・・・。』と話しながら、お代わりのソーダ割りをつくり、空になったグラスと差し替えた。
『ねぇ。佐賀は、この時期が一番いい季節なんだよ。』
「分かってますよ!空には、バルーンが舞い上がり、夜は、イルミネーションで飾られ・・・。カップルには最高の季節なんでしょ!」
といつもの常連さんから答えが返ってきたのとほぼ同時に扉が開いた。

『いらっしゃいませ!』と扉の方へ声をかけた。女性二人のご来店である。
『どうぞ、こちらの方へ・・・。』と案内し、二人の前にコースターを出して、オシボリを渡した。
「あのぅ、私たち、大分のBARで聞いて来たんですよ。」
『大分?それはどうも、ありがとうございます。』
「一度、佐賀のバルーンを見たくて・・・。すごく奇麗でした!」
『佐賀の風物詩ですからね・・・。ところで何にいたしましょうか?』
「何か、佐賀ならではのカクテルが飲みたいです。」
『かしこまりました。』
バック棚から菱焼酎とコアントロー(オレンジのリキュール)を取り、佐賀産のみかんを絞った。それをシェーカーに入れ、最後にグレナデンシロップを少し加える。氷を入れ、すばやくシェイクする。グラスに注いで、氷を加えオレンジとチェリーを飾れば出来上がりだ。

『はい。お待たせしました。どうぞ!』と二杯のカクテルをそれぞれのコースターの上に運んだ。
「奇麗な色!甘くて美味しいね。」
「うん!美味しい!」
「名前を教えて下さい!大分でも飲めますか?」
『このカクテルは、佐賀の特産品の菱焼酎と佐賀みかんのジュースを使ったオリジナルカクテルなんですよ。バルーンフェスタ用にバーテンダー協会の佐賀支部で創作した物で“ソフトランディング”と言う名前なんです。』
「そうなんですか。佐賀でしか飲めないカクテルなんですね・・・。」
『まぁ、そういうことですけど、全国にも広がってほしいですね・・・。』
と話した後で、いつもの常連さんのお代わりの催促に気付いた。

カウンター角の方から空のグラスを下げ、同じウイスキーのソーダ割りを作って運んだ。
「マスター。佐賀のオリジナルカクテルがあるんだね。」
『知らないのは、あなたぐらいでしょう・・・。』
「有名なの・・・。」
『15年ほど前からバルーン会場で販売もしてたんですけどね・・・。』
「佐賀に住んでて、バルーンに行ったことがないしね。」
『一緒に行く相手がいなかっただけでしょ!』
「もう、ストレートに言わないでよ!」とやりあってる時に、氷の鳴る音がし女性の方へ振り向いた。
「マスター!ご馳走様でした。朝早かったので、これで帰ります。」と一人の女性から声がした。
『ありがとうございます。』
「また、来年も来ますね。バルーンを見に・・・。そして、ここにも・・・。」
『“ソフトランディング・・・”』
「はい!美味しかったです。」
『実は、その名前なんですが、バルーンニストの間で、別れる時に、“さようなら”の代わりに使われている言葉で“ご無事に、お元気で”と言う意味があるそうです。』
「えぇ、素敵ですね。」
『ぜひ、覚えておいて下さいね。ありがとうございました。』
と女性二人を見送り、カウンターの中に戻った時、常連さんから声がした。

「マスター!僕も帰るよ。」
『まだ、早いんじゃないの?』
「明日、バルーンでも見に行こうかな・・・。」
『珍しいね。一人で・・・。』
「当たり前ですよ!」
『んじゃ、朝早いでしょうし・・・。またね!』
「ちょっと!僕には言ってくれないんですか!」
『な、何を・・・。』
「“ソフトランディング”ですよ!」
『・・・。き、気を付けてお帰り下さい・・・。』
「もう・・・。」

デパーチャー写真.JPG
最近、少し涼しくなってきた。10月に入り今年も2ヶ月余りで終わるのかと思うと、1年が経つのは早いものだと感じてしまう。
『相変わらず、ソーダ割りだね。』と、いつもの常連さんに話しかけた時、珍しく電話が鳴った。常連さんが居るカウンターの反対側に慌てて戻り、受話器を取った。30分後に2名様の予約の電話だった。
「予約だったの?」
『“二人で行くから、席を取っといてくれ”だって』
「電話しなくても、空いてるのにね・・・。」
『ちょっと、失礼じゃないの!』
「ごめんなさいです・・・。」
『実は、カクテルも予約されたんですよ。』
「飲み物までですか・・・?」と、やり合いながら、カクテルの準備を始めた。

バック棚からブルー・キュラソーとパルフェ・タムール(バイオレットのリキュール)を取り、冷凍庫からドライ・ジン出し、レモンを1個絞った。そして、シェーカーにその材料を入れた。あとは、お客様がお見えになったら、氷を入れて振れば出来上がりである。
準備が整ったのと、ほぼ同時に、扉が開いた。予定通りの登場だ。

『いらっしゃいませ!』
先に女性が一人で入ってきた。
「もう一人来ます。それから出してもらっていいですか!」
『かしこまりました。』
5分ほど遅れて男性が一人扉を開けた。
『いらっしゃいませ!』と同じように声を掛け、女性の隣りへ案内した。
コースターを2つ出し、オシボリを渡して、黙ってシェーカーを振った。
いつもとは、様子が違う出し方である。その女性から電話で頼まれた通りにお出しした。

『はい、どうぞ!ごゆっくり・・・。』
「ありがとう」と女性から返ってきた。そして、小さい声で男性が彼女に話しかけた。
「どうして、この店を・・・?」
「ここのカクテルが好きで、一緒に飲みたかったの。このオリジナルカクテル美味しいのよ。乾杯しましょう!」
と彼女が切り出した。
“乾杯!”の声のあとしばらく静かな空気に戻り、CDがキャロル・キングの“つづれおり”に変わり、“You’ve Got A Friend”が流れて来た。
いつもの常連さんの前へ行き、ウイスキーのソーダ割りのお代わりをすすめ、2杯作り、私もまた一緒にいただくことにした。
「ねぇ、マスター!あの二人、会話がないよね。」
『いいじゃないですか。他の人のことは・・・。』
「そうだけど・・・。」
『話さなくても、お互い分かっているんですよ。まぁ、あなたには理解できないでしょうけど・・・。』
「ん・・・、できない・・・。」
と小声で話している時に、タバコに火をつける音がした。
咄嗟に、その男性の前に行き、灰皿を差し出した。
男は、大きくひと吹かしして、灰皿にタバコを置いた。それまで、ずっと黙っていた女性が口を動かした。
「ねぇ、カクテル、美味しいでしょう。“デパーチャー”って言う名前なのよ・・・。」
「出発・・・。」と男性から声がした。そして、しばらく沈黙が続いたあと、女性
が付け足すように言った。
「別々の道へ向かってね・・・。」
その言葉を残し、女性は先に扉の外に消えていった。
「マスター!」と男性から声がした。
「これで失礼します。今日は、美味しいカクテルありがとう・・・。」
『こちらこそ、ありがとうございました。』
「今度来る時は、新しい出発の時です。また“デパーチャー”をいただきますよ。」
『お待ち申し上げております。』と、お見送りをしてカウンターの中に戻った。
二つのグラスの内、女性の方だけ、半分ほどカクテルが残されていた。それを片付け、カウンター角の常連さんに目を向けた。

「マスター…。新しい出発をするのって大変なんだね。」
『何を、しみじみ言ってるんですか。』
「あの女性…。彼のこと忘れられないんじゃない・・・。」
『何を分かったように言ってるんですか?』
「だってさ!“デパーチャー”半分残ってたでしょ!」
『な、なるほどね…。』