バイオレットフィズ写真.JPG
「マスター!」とカウンター角の席から声がした。いつもの常連さんがいつもの席で、空になったグラスを鳴らしていた。
『はいはい。何でしょう?』
「お代わりですよ。ハイボール!」
『まだ飲むの!もう1時をまわっているよ。』
「もう1杯だけいいでしょう。」
『分かりましたよ。最後ですよ。明日も仕事でしょ。』と空のグラスを下げ、新しいハイボールをつくって常連さんの前のコースターの上に運んだ。
とその時、扉がゆっくり開き「まだ、いいですか?」と丁寧な声と一緒に着物姿の一人の女性が入って来た。
『どうぞ、まだ大丈夫ですよ。いらっしゃいませ!』と声を返しながら、カウンターの真中の席に案内した。
「ごめんなさいね。こんな格好で・・・。」
『とんでもないです。いつも、お着物で・・・。』
「はい。40年、着物で仕事してますね。」
『素敵ですね。ところで、何にいたしましょうか?』
「私は、昔からバーが好きで、この街にもバーがたくさんありましたね。よく行ってましたよ。フィズを飲みにね。」
『かしこまりました。それではフィズをおつくりしましょう。』
「お任せしますわ。」
『はい。』と返した後、バック棚からバイオレットのリキュールを取り出し、レモンを絞って一緒にカウンターの上に置いた。
シェーカーにリキュールとレモンジュースを入れ、シュガーシロップをバースプーンで加えた。そして、氷を入れて素早くシェイクする。冷しておいたタンブラーに注いで氷を入れ、炭酸を満たしてレモンスライスを飾れば出来上がりだ。
『はい。お待たせいたしました。』と言葉を添えて、女性のコースターの上に静かに運んだ。簡単なカクテルではあるが、少し緊張していた。
「あら、“バイオレットフィズ”ですね。懐かしいわ。」
『お着物の色に合わせてみました。いかがですか?』と話した後、女性はしばらくカクテルを眺めていた。そして、おもむろにグラスを静かに持ち上げ、紅色の口元まで運んだ。
「美味しいわ。昔を思い出すわね。昭和30年代の終わり頃かしら・・・。バーに行けば、フィズかハイボールばっかりでしたわ。」
『僕が生まれた頃ですね・・・。』
「まぁ、まだお若いわね。でも、ここの店はお酒がたくさんあって、天井も高いし、それにこのカウンターの幅が広くて・・・。ホント、昔を思い出す造りですわね。」
『あ、ありがとうございます。まだ若いですけど、あと20年もすれば、もうちょっと味のあるバーの主人になってると思います。』
「身体に気をつけて頑張ってくださいね。」
『はい・・・。』と笑顔で返した。そして、女性は残りのカクテルを静かに飲み干した。そして、紅色の口元がまた動いた。
「今日はね。1杯だけと決めて来たんですよ。だから、これで失礼しますね。」
『ありがとうございます。』
「また、来させて下さいね。あっ、それに、昔、通っていたバーでも、着物の色に合わせてくれたんですよ。紫は好きな色なんです。」
『また、よろしくお願いいたします。』
と外までお見送りをした。そして、カウンターの中に戻り、いつもの常連さんの前に行った。

「ねぇ、マスター。」
『はい。何でしょう?』
「素敵な方でしたね。」
『そうだね。着物姿は、何ともいえない雰囲気があるね。』
「そうそう、マスター!緊張してたでしょ!」
『あたり前ですよ。私が生まれた頃からバーに通ってる方ですよ。粗相がないようにしないとね。』
「そうですよね。昔を思い出しに来られたんでしょう。たぶん…。」
『おぅ、あなたにしては、さえてるじゃないですか!』
「ところでさぁ、フィズってどういう意味なの?」
『あのね、質問はいいけど、閉店時間だけど!』
「じゃぁ、もう一杯お代わりつくって下さいよ!」
『もう、ホントにこれで最後ですよ。』と言って、ハイボールを二杯つくった。
『はい、どうぞ、私もいただきますよ!あなたのおごりで…。』
「わ、分かりましたよ!で、名前の意味は?」
『それはね、ハイボールにも入っているけど、炭酸のガスが立てる“シュッ”という音からきた擬声語だと言われているんですよ。分かるかなぁ…。』
「分かります!」
『ところで、婚カツはどうなったの?』
「えぇ、今度は僕に質問ですか?マスター、酔ってきてるでしょ!」
『まだまだ…。』
「あのう…。閉店時間も過ぎたことだし、マスター、一緒に帰りましょうか!」
『質問に答えなさい!』
「もう…。」

マイタイ写真.JPG
早い時間からバタバタが続いていた。いつもの常連さんが、いつもの時間に扉を開けたが、「また…。」と手で合図をしただけで入ってはこなかった。
時計は12時を回ってやっと落ち着いたところだ。もう今日はこれで終わりだろうと思っていた時に、勢いよく扉が開いた。
『いらっしゃいませ!』と慌てて声を出した。
「よぉ。久しぶり!」と同級生のS君が入ってきた。その後ろから、彼がよく行くスナックのママと驚いたことにいつもの常連さんも一緒だった。
「こんばんは!さっきは忙しかったね。」常連さんから声がした。
『今日は、もう来ないと思ってましたよ。それに、どうして?』と聞きながら、三人の顔を見渡し、いつもの席の方へ案内した。
「何を不思議そうな顔をしてるんだ。」とS君から声がした。
『あなたとママは、不思議じゃないけどね。ところで、何にしましょうか?』
「まずは、ハイボールでしょ!三杯ね!」の声に常連さんも頷いた。
『かしこまりました。』とウイスキーのソーダ割りをつくり、三人の前に運んだ。乾杯の声の後、ハイボールをすする音がした。そして常連さんの口が動いた。
「マスター!さっきはゆっくり飲めそうもなかったから、ママの店に行ったんだ。そこで同級生の方とお会いして…、意気投合となったわけですよ。」
『そうだったの。』と返した後、次はママから声がした。
「二人とも、意気がピッタリだったのよ。歌も話しもね…。ホント楽しかった。」
『へぇ〜。なんか怖い気がするのは僕だけですかね。』とひとり言の様に呟いた
後、話しかけた。
『そうそう、S君。ハワイはどうだったの?』
「良かったよ。もう最高に楽しかったよ。海も女性も綺麗だったしぃ…。」
『前みたいに、若い女性の後を付いて行ったりして、春色になりかけたんじゃないでしょうね。』
「してませんよ。カミさん、子供、親父におふくろも一緒だったんだよ。でも、綺麗な子が多かったね。金髪に青い目、いいねぇ…。」
「うちの店でも、その話で盛り上がってたね。」とママから声が入り、ハイボールが空になる音が聞こえた。
『皆さん。お代わりしましょうか?』
「そうだな、俺は、ハワイのホテルで飲んできたカクテル“マイタイ”を飲みたいなぁ。」
「私は、シャンパンをグラスでちょうだい。」
「ぼ、僕は、同じハイボールをお願いします。」
『はい。かしこまりました。』と答え、ママには、背の高いグラスにシャンパンを注いで、常連さんには同じソーダ割りをつくり、空のグラスと取り替えた。
それからカクテルをつくることにし、バック棚からラムを二種類(ホワイトとダーク)とオレンジキュラソーを取り出し、冷蔵庫からパイナップルジュース出した。そしてオレンジとレモンを少しだけ絞ってカウンターの上に並べた。
シェカーにホワイトラムと材料を入れ、氷を加えて素早くシェイクし、クラッシュドアイスを詰めたグラスに注いだ。ダークラムを少しフロートして、カットしたパイナップルとオレンジを飾り、ストローを添えたら出来上がりだ。
『はい。お待たせ。マイタイです。』と言って、彼のコースターの上に静かに運んだ。
「おぉ、出来たか。」と言って、一口飲んだ。
「うん、美味い。でも、もっと甘かったなぁ向こうのは…。」
『本場では、器も大きいし飾りも派手らしいし、何といってもトロピカルカクテルの女王と呼ばれているものだからね。』
「そうだったよ。でかいグラスに、フルーツもたくさん飾ってあったなぁ、それを飲んでハワイを満喫、気分も最高。また、行きたいね。」
『ねぇ。ちなみにマイタイと言う言葉がタヒチ語で“最高”という意味だって知ってた?』
「そうか。まさしくハワイだぁ!」と言って残りのカクテルを飲み干し、その勢いはまだ止まりそうもなかった。
「よし、ママ!もう一軒行くから付き合ってよ!ここはもうすぐ閉店だし…。君も行く?」
「僕は、ここでもう少し飲んで帰ります。」
「じゃ、またね。マスター!勘定!」
『はい、ありがとうございます。』と扉の外までS君とママを見送った。

カウンターの中に戻り、マイタイが入っていたグラスとシャンパングラスを片付けた。そして、常連さんの空になったグラスを下げ、新しいハイボールをつくって角の席に運んだ。
「マスターの同級生、楽しい人だね。ママの店でもずっとあんな感じだったよ。」
『昔から、変わってないよ。回りを楽しませるし、それでいて自分が一番楽しいってヤツでね。』
「羨ましいなぁ。それに、ハワイか…。行きたいなぁ…。」
『新婚旅行で行けばいいのに。』
「もう!そんなに簡単に言わないでよ。」
『ゴメン、ゴメン。彼女…。まだだったね。』
「よし明日から、気合入れて“婚カツ”しよっ。応援してよ!」
『頑張れ・・・。』
「気持ちが入ってないよ。もう…。」

オールドパル写真.JPG
時計の針は10時を回り、静かな一日になりそうだと思ってたところに、勢いよく扉が開いた。
『いらっしゃいませ!』と扉の方に声を投げかけた。
「こんばんは!」といつもの常連さんが機嫌よく入ってきた。その後に続くように、もう一人、男性が入ってきた。
『いらっしゃいませ!』とまた声をかけた。
常連さんは、迷うことなくいつもの席へ座り、その隣に男性も落ち着いた。
『今日は、どうしたの?上機嫌じゃない!』
「マスター!紹介するよ。僕の小学校からの同級生でね。ここに来る途中で偶然会ったんだぁ。」
『そうですか。初めまして、よろしくお願いします。』
「初めまして。いいお店ですね。」
『ありがとうございます。』
「僕たち、腐れ縁で、高校までずっと一緒だったんだよ。」
『いいじゃないですか。そういう仲間がいて、羨ましいことですよ。ところで、何にしましょうか?』
「決まってるでしょ!ハイボールを2つ。」
『二杯ね。かしこまりました。』
と答え、いつものウイスキーのソーダ割りをつくり、常連さんとその男性にお出しした。
「いただきます!」といつになく元気な常連さんだ。一口飲んでまた口が動き出した。
「美味いだろう!僕がいつも飲んでる“ハイボール”ってやつだよ。」
「知ってるよ。俺もよく飲んでるし、BARは好きでね。」
「そ、そうなんだ・・・。し、しかし、15年ぶりだよなぁ。」
「もう、15年も経つのかぁ。」
「マスター!ちょっと聞いてくれる?」
『はい。なんでしょう?』
「高校時代に、コイツと僕は同じ女性を好きになってね。どっちが先に気持ちを伝えるかって、競い合ってさぁ・・・。」
『へぇ、で、どうだったの?』
「僕が先だったけど。見事にフラれてしまったね。でも、コイツはね、結局何も言えなかったんだよ。」
「おいまてよ。それは違うぞ。俺がフッたんだよ。今だから言えるけど・・・。」
「えぇ。何だよ。彼女は、お前を好きだったのか?」
『まぁまぁ。ところで、お二人さん、ハイボールが空になってるけど?』
「あっ。僕は、お代わり!」
「俺は、何かカクテルをもらおうかな?」と男性から声がした。
『かしこまりました。』と返したあと、常連さんにハイボールをつくり、空のグラスと取り替えた。そして、バック棚を見渡し、ウイスキーとカンパリを取り冷蔵庫からドライベルモット出して、カウンターの上に並べた。
「ねぇ。何つくるの!」と常連さんが問いかけてきた。
『ちょっと、静かにしてて・・・。』と答え、ミキシンググラスを取り、氷を入れた。そこに並べた材料を入れ、バースプーンで素早く混ぜ合わせた。
ストレーナーを被せ、冷しておいたカクテルグラスに静かに注ぎ、その男性の前のコースターの上に運んだ。
『はい。どうぞ!』
「ありがとうございます。」と声が聞こえた。
「マスター・・・。喋っていい?」と常連さんからも声がした。
『どうぞどうぞ。』
「で、そのカクテルは何なの?」
『“オールド・パル”というカクテルです。』
「へぇ〜。」と常連さんが返した後、男性からも声が聞こえた。
「オールド・パルですか。」
『“古い仲間”という意味だけど、意訳したら“親友”と同じだね。』
「“親友”か・・・。お前とも長い付き合いだもんな。こらからもよろしく頼むよ。」
とその男性の後に、すぐに常連さんが話し始めた。
「今更、何だよ。かしこまってさ。当たり前だろう。でも、彼女がお前を好きだったとは。ショックだよ。」
それからしばらくの間、グラスの中の氷の音だけが聞こえていた。
そして、常連さんのグラスが空いたのと同時に男性の方が先に口を動かした。
「このカクテルは、ほろ苦いところがいいんだよ。まさしく友情の味がするね。」
「何を、カッコ付けてんだよ…。」という常連さんに続いて
「俺は先に帰るから。」とその男性は席を立った。
「そぅ、そうか。僕は、閉店までマスターに付き合うよ。」
『ありがとうございます。また寄って下さい。』
とその男性を見送り、カウンターの中に戻った。そして、一人になった常連さんの前に行き、声をかけた。
『いい方じゃないですか。彼女よりも友情が大事だったんですよ。』
「アイツ、転勤でこっちに帰ってきたけど、変わってないなぁ。カッコいい役ばっかりしてさぁ。」
『あなたも、全然変わってませんね。口説き好きで、フラれっぱなしで、過去を引きずるところなんか。』
「もう!ただ、ショックなだけです。」
『癒してくれるハイボールをお代わりしようか。』
「は、はい・・・。」

チェリーブロッサム写真.JPG
「マスター!花見に行ったの?」と角の席から、出来立てのハイボールを一口飲んで、話しかけてきた。
『毎年、桜を見に行ってますよ。走りながらですけどね。』
「走りながら?」
『桜マラソンのジョギングに出てるんですよ。年取ると運動不足になりがちですから。』
「へぇ・・・。」
『気持ちいいよ。川沿いの土手のところなんかは、満開の桜を見ながら走れるし、なんと言っても、その後のビールが美味いんだよね・・・。来年、一緒に走ろうか?』
「え、遠慮しときます。でもビールは付き合ってもいいけど。」
『だめです。』と答え、『お代わりは?』と訪ねた時に、扉が開いた。

『いらっしゃいませ!』と扉の開く音と同時に声をかけた。
「こんばんは!」と言う女性の後に男性が二人一緒に入ってきた。
『お疲れさまです。残業ですか?』
「毎日が残業だよ。」と男性の方から声がした。
いつも決まってこの三人の組み合わせでお見えになるお客様だ。当店の近くのアパレル業の社長と社員二人である。
三人をカウンター真中に案内し、オシボリを渡し、コースターをそれぞれの前に置いた。
『何にしましょうか?』
「俺は、ギネス。」
「僕は、癖のあるウイスキーを下さい。」
「私は、忙しくて花見にもいけなかったから、行ったような気分になれるカクテルを下さい。」
『・・・。気分になれるカクテルですか?』
「おいおい、そんな注文の仕方をすると、マスターが困るだろう!」
と社長からお助けの言葉があった。
「だって、花見に行きたかったんだモン・・・。」
『かしこまりました。何とかしましょう。』
そう返事をして、まずギネスビールを社長にお出しし、もう一人の男性には、シングルモルトのアードベッグをオン・ザ・ロックでお出しした。
それから彼女のカクテルをつくることにした。バック棚からブランデーとチェリーヒーリング(チェリーのリキュール)とオレンジキュラソー、グレナデンシロップを取り出してカウンターの上に並べた。
シェーカーを取り、材料を入れて絞りたてのレモンジュースを少し加えた。
そして、女性の前でリズミカルにシェイクし、冷しておいたカクテルグラスに静かに注いだ。
『はい。お待たせしました。“チェリーブロッサム”です。』
「わぁ〜。やった!チェリーブロッサムですか!まさしく花見ですね・・・。」
「おいおい、ちょっとはしゃぎ過ぎだよ!」
「社長!いいじゃないですか!残業続きで桜の花も見れなかったんですよ!」
「だから、そのお礼にこうやって・・・。」
「分かってますって、仕事頑張ったモン。」
と何やら、本当に花見をしているような雰囲気になってきた。
「マスターも飲んで!乾杯しましょう。」と女性から声がした。
『は、はい。では、ハイボールをいただきます。』と返して、いつもの常連さんのお代わりといっしょに二杯つくり、三人のお客様と花見の乾杯をした。
「乾杯!」
『いただきます!』
「マスター。最後にもう一杯ずつお願いしようかな。俺と彼は、同じのを彼女は・・・。」
「私は、この一杯で十分ですよ。まだ浸っていたいし・・・。」
「…だそうです。」
『はい。かしこまりました。』と答えて、ギネスとウイスキーの二杯だけを新しいのと差し替えた。しばらくの間、静かな空気が流れ、三人のお客様のグラスもまた空になりかけていた。
「美味しかった!社長!帰りましょう・・・。」と女性から突然声がした。
「はいはい。分かりましたよ。マスター!ということでこれで失礼するよ。」
と社長の後、やさしい小さい声が女性から聞こえた。
「マスター。いい気分のままで寝ることにします。おやすみなさい。」
『ありがとうございます。おやすみなさい・・・。』
と声を返し、扉を閉めて中に戻り、いつもの常連さんの前に行った。

「マスター。来年、走ろうかな・・・。」
『おや、気持ちが変わったんですか。』
「花見をしたくなって・・・。で、お願いだけど、走った後にハイボールを飲みたいけど・・・。」
『昼間から仕事をさせないでよ!』
「やっぱりダメか。」
『当たり前です!』
「・・・。」

モスコーミュール写真.JPG
今日は、珍しくいつもの常連さんが来る前に、お客様がお見えになった。開業当初から通って下さっている方で、奥様もご一緒である。
ご主人にはサッパリめのショートカクテルを、奥様には、ちょっと甘めのロングカクテルをお出しし、それぞれ二杯目をお飲みになっている。
「マスター。この場所に移って何年経つかな?」
『10年目になりました。前の店から合わせると21年目ですよ。』
「そうか・・・。もう、そんなになるのか・・・。ということは20年はこの店に通っていることになるなぁ。」
『そうですね。ほんと長いお付き合いありがとうございます。』
「いやいや最近は、ご無沙汰しててすまなかったね。」
『とんでもない。ご夫婦揃ってお顔を出して下さるだけで嬉しいし、ありがたいですよ。』
「しかし、マスターも変わらないね。」
『そんなことはないですよ。お店と共に20年は歳を取りましたから…。』
「でも、子供たちが成長したのを見ると、歳を取ったんだと感じるね。こうやって、カミさんともまた来れるようになったし・・・。」
『いいじゃないですか。私も早くそうなりたいです。』
と会話が弾んでる時に、扉が開き、いつもの常連さんが入ってきた。いつもだったら、常連さんがその日の最初のお客様なのだが・・・。

『いらっしゃい!』
「ぼ、僕が一番目じゃなかったんですね。」
『はい。残念でしたね・・・。』
「ま、まぁいいか・・・。」と呟きながら、いつもの角の席へ吸い込まれてゆくように腰を下ろした。
『いつもので?』
「もう、分かってるくせに・・・。言わせたいんでしょう。ハイボールって。」
『一応、確認しないとね。』
とやり取りの後、ハイボールをつくって角の席へ運んだ。そして、ご夫婦の前へ戻った。

「マスター。最後の一杯、“アレ”をお願いするよ。家内はもういいようだ。」
『かしこまりました。』
と答えて、銅製のマグカップを出してカウンターの上に置いた。それから冷蔵庫からウオッカ(自家製の生姜を漬け込んだもの)とジンジャーエールを取り出し、同じようにカウンターの上に並べた。
まず、8分の1にカットしたライムを用意し、それを指で潰しながらマグカップの中に入れる。氷を加えてウオッカ入れ、ジンジャーエールを満たし、軽くステアすると出来上がりだ。
『はい。どうぞ!“モスコーミュール”です。』と言って、そのご主人の前のコースターに静かに運んだ。
「おぉ。出来たか。ここに最初に来た時から習慣になってしまってね。これを飲まないと帰れないからなぁ・・・。」
『そうですね。』
「うん。美味い!ショウガが効いてて、ちょっと辛めなのがいい。やっぱり最後はこれだな。それと、マグカップで飲めるのが嬉しいね。」
『モスコーミュールは、マグカップでお出しするのが定番ですからね。』
「さて・・・。帰るとするか・・・。また、お邪魔するよ。」
『ありがとうございます。』
「最近はね、家内と一緒に飲めるのが楽しみででね・・・。」
『羨ましいかぎりです。また、ご一緒にご来店下さい。』
と扉の外までお見送りをした。
カウンターの中に戻り、空のグラスとマグカップを下げ、洗って拭きあげた。
そして、一人寂しそうにしている、いつもの常連さんの前に行った。

『すみませんね。ハイボール、空でしたね。』と話しかけ、氷だけになったグラスを下げ、新しいソーダ割りをつくって角の席まで戻った。
「早い時間から忙しかったんだ・・・。」
『珍しくね。』
「歳を取っても、夫婦で一緒に飲めるっていいよね・・・。」
『でしょう。』
「ところでさぁ。マグカップでつくるカクテルもあるんだね?」
『いいところに、気が付きましたね。あのカクテルには、ちょっとした逸話があってね・・・。聞きたい!』
「言いたいんでしょ!もったいぶらないで教えてよ!」
『昔ね。三人の営業マンが、それぞれジンジャーエール、ウオッカ、そしてマグカップが、思うように売れなくて悩んでいてね。三人がコラボして考え出したのが、そのカクテルなんですよ。簡単に言うとね・・・。』
「へぇ〜。そうなんだぁ。三人寄れば文殊の知恵ですか・・・。」
『おぉ、すごいね。そういう言葉が聞けるとは・・・。』
「一応、大学出てますから・・・。」
『し、失礼しました。』