「マスター!花見に行ったの?」と角の席から、出来立てのハイボールを一口飲んで、話しかけてきた。
『毎年、桜を見に行ってますよ。走りながらですけどね。』
「走りながら?」
『桜マラソンのジョギングに出てるんですよ。年取ると運動不足になりがちですから。』
「へぇ・・・。」
『気持ちいいよ。川沿いの土手のところなんかは、満開の桜を見ながら走れるし、なんと言っても、その後のビールが美味いんだよね・・・。来年、一緒に走ろうか?』
「え、遠慮しときます。でもビールは付き合ってもいいけど。」
『だめです。』と答え、『お代わりは?』と訪ねた時に、扉が開いた。
『いらっしゃいませ!』と扉の開く音と同時に声をかけた。
「こんばんは!」と言う女性の後に男性が二人一緒に入ってきた。
『お疲れさまです。残業ですか?』
「毎日が残業だよ。」と男性の方から声がした。
いつも決まってこの三人の組み合わせでお見えになるお客様だ。当店の近くのアパレル業の社長と社員二人である。
三人をカウンター真中に案内し、オシボリを渡し、コースターをそれぞれの前に置いた。
『何にしましょうか?』
「俺は、ギネス。」
「僕は、癖のあるウイスキーを下さい。」
「私は、忙しくて花見にもいけなかったから、行ったような気分になれるカクテルを下さい。」
『・・・。気分になれるカクテルですか?』
「おいおい、そんな注文の仕方をすると、マスターが困るだろう!」
と社長からお助けの言葉があった。
「だって、花見に行きたかったんだモン・・・。」
『かしこまりました。何とかしましょう。』
そう返事をして、まずギネスビールを社長にお出しし、もう一人の男性には、シングルモルトのアードベッグをオン・ザ・ロックでお出しした。
それから彼女のカクテルをつくることにした。バック棚からブランデーとチェリーヒーリング(チェリーのリキュール)とオレンジキュラソー、グレナデンシロップを取り出してカウンターの上に並べた。
シェーカーを取り、材料を入れて絞りたてのレモンジュースを少し加えた。
そして、女性の前でリズミカルにシェイクし、冷しておいたカクテルグラスに静かに注いだ。
『はい。お待たせしました。“チェリーブロッサム”です。』
「わぁ〜。やった!チェリーブロッサムですか!まさしく花見ですね・・・。」
「おいおい、ちょっとはしゃぎ過ぎだよ!」
「社長!いいじゃないですか!残業続きで桜の花も見れなかったんですよ!」
「だから、そのお礼にこうやって・・・。」
「分かってますって、仕事頑張ったモン。」
と何やら、本当に花見をしているような雰囲気になってきた。
「マスターも飲んで!乾杯しましょう。」と女性から声がした。
『は、はい。では、ハイボールをいただきます。』と返して、いつもの常連さんのお代わりといっしょに二杯つくり、三人のお客様と花見の乾杯をした。
「乾杯!」
『いただきます!』
「マスター。最後にもう一杯ずつお願いしようかな。俺と彼は、同じのを彼女は・・・。」
「私は、この一杯で十分ですよ。まだ浸っていたいし・・・。」
「…だそうです。」
『はい。かしこまりました。』と答えて、ギネスとウイスキーの二杯だけを新しいのと差し替えた。しばらくの間、静かな空気が流れ、三人のお客様のグラスもまた空になりかけていた。
「美味しかった!社長!帰りましょう・・・。」と女性から突然声がした。
「はいはい。分かりましたよ。マスター!ということでこれで失礼するよ。」
と社長の後、やさしい小さい声が女性から聞こえた。
「マスター。いい気分のままで寝ることにします。おやすみなさい。」
『ありがとうございます。おやすみなさい・・・。』
と声を返し、扉を閉めて中に戻り、いつもの常連さんの前に行った。
「マスター。来年、走ろうかな・・・。」
『おや、気持ちが変わったんですか。』
「花見をしたくなって・・・。で、お願いだけど、走った後にハイボールを飲みたいけど・・・。」
『昼間から仕事をさせないでよ!』
「やっぱりダメか。」
『当たり前です!』
「・・・。」