『いらっしゃいませ!』と入口の方へ身体を向けた。
「こんばんは!ご無沙汰しててごめんなさい!」と笑みを浮かべながら一人の女性が入ってきた。
『ホント、久しぶりですね。』と返しながら、オシボリを渡し、コースターをその女性の前に置いた。
「仕事を辞めて、母の介護で、なかなか出れなくて・・・。」
『そうだったんですね。ところで、何にしましょうか?』
「そうね、やっぱりアレかな、悲恋のカクテル!」
『はい。かしこまりました。』と答えて、バック棚の方を向き、コアントローを取り出し、冷凍庫からテキーラを出してカウンターの上に並べた。ライムを1個搾り、その横に置いた。
冷蔵庫からカクテルグラスを取り出し、グラスの縁をレモンで濡らした。皿の上に広げた塩の中にグラスの縁を回しながら軽く押し付ける。そうすればグラスの縁全部にキレイにお塩が付いてくる。
グラスを軽く叩いて余分な塩を落とし、カウンターの上に置いた。シェーカーの中に材料を入れ、氷を入れて素早くシェイクする。そして、塩の付いたカクテルグラスに静かに注いだ。
『はい。どうぞ、“マルガリータ”です。』と言って、その女性のコースターの上に運んだ。
「このカクテルには、色々思い出があるわね。」と言って、グラスを握り、一口飲んでコースターの上に戻した。
「うん、美味しい・・・。」
『仕事も、恋愛も頑張ってましたね。』
「仕事はそれなりにこなして来たけど、恋愛はなかなか実らなかったわね。」
『マルガリータは、悲恋の話しだけじゃないんですよ。』
「そうなの?“猟に行ったとき、流れ弾が当たって彼女が亡くなり、彼女との思い出をカクテルにして、その彼女の名前を付けた”という話ししか知らないけど。」
『もう一つあるんですよ。僕の同級生がニューヨークにいるときに、新聞に載っていたマルガリータの話しが・・・。』
「悲恋の話じゃないんだ。」
『そうなんです。仲のいい夫婦の話で“好きな夫から、誕生日に自分の名前のマルガリータと刻まれたグラスをプレゼントされ、そのグラスでオリジナルカクテルをつくって、ホームパーティーでお客様に出していたのが広まって有名になった”という話しなんですよ。』
「幸せな話しなんだね。」
『でしょう。』
「マルガリータって、あの頃の私にピッタリのカクテルだと思ってた…。」
『いえいえ、これからのあなたにピッタリだと思いますよ。』
「えぇ、どういう意味?」
『風の噂で聞いただけですけど・・・。』
「そう?もう届いていましたか。ここまで。」
『おめでとうございます。』
「あ、ありがとう。入籍だけ済ませました。母のことがあるので・・・。」
『落ち着いたら、パーティーでもしたら?お手伝いしますよ。』
「うん。その時はお願いします。」
と言って残りのカクテルを飲み干した。そして、一瞬、静かな空気が流れたあと、椅子が動く音がした。
「マスター。帰ります。マルガリータ、ますます好きになりました。」
『ありがとうございます。今度は、彼と一緒に来て下さい。』
と話しながら扉の外まで見送った。
店の中に入り、椅子を綺麗に並べ、空のグラスを下げカウンターの中に戻った。
洗い終わったグラスを拭きあげているときに、扉の開く音がした。
いつもの常連さんが、いつもの時間より2時間ほど遅くに入って来た。
『いらっしゃい!遅かったね。』
「一応、サラリーマンですから残業もありますよ。ところで、いつものを!」
『はい、はい。ハイボールね。』と答え、いつものウイスキーのソーダ割りをつくって、コースターの上に運んだ。
「う、美味い!そうそう、マスター、聞いてくれる?」
『何でしょう?』
「夏に、高校の同窓会があってね、二次会で盛り上がってさぁ、その時に一緒だった女(こ)からメールが来てたんだよ。」
「今度、誕生会をするから参加してって…。」
『いいじゃないですか。チャンスですよ。』
「そ、それがね。名前だけで、どの女(こ)か分からないんですよ。酔ってて、持ってた名刺を全部配っちゃたみたいで…。」
『大丈夫!プレゼントでも買って参加しなさい!』
「プ、プレゼント?」
『そうそう、その彼女の名前入りのグラスにしなさい!』
「えぇ、そんな柄じゃないけど…。」