吉野ヶ里町で、1989年2月、大規模な環濠集落跡が見つかった。V字型に深く掘られた環濠跡は2.5キロメートルにもおよぶもので、弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、敵の侵入を防ぐために木柵、土塁、逆茂木が施されていた。その環濠の中には建物の遺構がいくつも発見されている。竪穴住居、高床住居、祭祀が行われる祭殿や青銅器製造の跡も発見された。
その当時、邪馬台国に関する遺跡ではないかとも言われて、九州王朝説論争にまた火が付いたのである。この物語は、吉野ヶ里遺跡が発見された頃の不思議な物語である。

ある日の夕方、吉野ヶ里の小高い丘で元気よく遊んでいる中学生の子供達がいた。その中の一人の少年が、何かにつまずいて転んで足を怪我してしまう。
倒れた拍子に身をかばおうと、咄嗟に地面に手をつき、なにかを無意識に握りしめていた。

「おい、大丈夫か?」と友達の一人が声をかけた。
「大丈夫!」と返事はしたものの右足の膝を怪我してGパンに血が滲んでいた。
その返事を聞いて、友達は少年にまた声をかけた。
「そう言えば、お前の姉ちゃんも怪我してたなぁ…。姉弟おそろいで、仲の良い事。」
その少年には三つ上の姉がいて、この下の道を自転車で通っている時に、転び足を骨折する大怪我をしていた。

少年は、怪我をしたため、友達たちと早めに別れて家に帰った。服を着替え、怪我した膝にカットバンを貼り、脱いだ服を片付けようとGパンを取った時にポケットに何か入っているのに気づいた。それは、倒れた時に咄嗟に握りしめた物だった。青いガラス製の管のような物で片方が割れていた。

夕飯とお風呂を済ませて、傷口に薬をぬり、明日の宿題を片付けてベットに入った。しばらくして、その足の傷が、痛みだしうなされてしまう。そして、いつの間にか眠ってしまった。

少年は深い眠りに落ちて行くその間に、何か声が聞こえて来た。

「ねぇ、助けて下さい。お願いです…」と言う女性の声に、少年はゆっくり目を開けた。そこは、学校の教科書によく載っている弥生時代のもののような櫓の中だった。そして、まわりの景色もそこに居る人達の身につけている服も教科書の中の絵にあるようなものだった。

「おぉ…、目が覚めたか!タケル(武)!」と老婆が声を上げた。

「タケル? 」と小さくつぶやき声の方を向いた。そこには、一人の老婆と数人の大人達がいて、その櫓の中の一段高くなったところに、さっきの声の主だろう女性がいた。少年がいるところからは、その女性の顔はよく見えなかった。

女性は、ヒムカ(日向花)と言い、タケルは弟である。老婆は、不思議な力を持つ祈祷師で、何やら体じゅうを装飾し、両腕には大きな貝殻を繰る抜いた腕輪みたいなものが幾つも付けてあり、村人からは、神様みたいに崇められていた。
そして、ヒムカとタケルのおばあちゃんでもあるのだ。父と母は、この村を最初に築き上げたが、いく度となく起こる戦いですでに亡くなっていた。

タケルが目が覚めたのは、老婆がお祈りと呪文のような言葉をかけたからだっ
た。

「ここは何処ですか?あなた達は…?」と少年は声を出した。

「まだ、戦いの後で、正気に戻ってないようじゃ」と老婆がつぶやき、大人の一人がその後に話しかけてきた。
「タケル様、先ほどは勇者のような戦いでしたよ。」

大人達は、先ほどの戦いの話をしている。どうやらタケルは、大人達と一緒に戦ったらしく、姉のヒムカを守りその時に倒れて気を失い、老婆の何やら不思議な力で助かったと皆んなは、思っているようだ。

「ぼ、僕は、戦ったの?」
そう、小さい声でつぶやいた。

ヒムカや、老婆を含め100人程が暮らす村は、とても恵まれた場所にある。北には豊富な農作物が取れる畑がつくられ、真ん中の小高い丘には、竪穴式住居の集落がある。南に下ると広い海があり、海産物も取れる。
両親が築き上げたこの村の恵まれた立地は、他の勢力を強めている部族から狙われていて、村人達は、いつかは大きな戦いがおこり、この場所が奪われてしまうのではないかと恐れていた。そんな話しを聞き時間が経つにつれて、少年は夢を見ているのではなく、この村に生まれ育ってきたのだと思うようになっていった。また、ヒムカは、日増しに能力を高めて行き、いつしか村をまとめるようになって行った。そして、老婆は、ヒムカをこの村の王に任命した。

それから数日が経ち、ヒムカは自分で作った青い管玉の首飾りを、老婆に力を入れてもらい、弟であるタケルに渡すように頼んだ。老婆は祀られていた一本の青銅製の剣とその青い管玉の首飾りを渡した。それから、老婆は、タケルに言った。
「この剣を持つ者は、勇者であり、青い管玉を身に付けた者は、この村の王、ヒムカを最後まで守ることを誓わなければならない。」

タケルは、右手に剣を持ち、管玉の飾りを、自分の首に付けて、老婆に声を返した。
「はい!この村と王を守ってみせます。」

王ヒムカは、村を守るために男たちを集め、この村の周りに二重の環濠を造り、その周りに柵を巡らせることと、丘の一番高いところに、物見櫓を作るよう指示を出した。タケルは、ほかの男達を集め、戦い方と武器作りの指示をだし、一緒に準備を進めた。

そして、その戦いの日がやって来た。

今までとは違う数の敵の兵士が近づいて来るのが物見櫓から見ることが出来た。

「て、敵がきたぞ!」と櫓の方から大きな声が聞こえた。
「タケル、準備はいいか?」と老婆がすぐに声をかけてきた。

「はい、この剣と管玉の誓いで、力が湧いてきました。必ず守ってみせます。」

敵は、二重に掘られた環濠と柵により中には入って来れない。一箇所だけ小さい丘に通じる路があるが、敵がそこを通ることを予測して罠を仕掛けてある。深く掘られた落とし穴の底には、木の枝で作った槍を何本も立ててある。この落とし穴は大成功だった。そして、その罠に落ちなかった敵とタケルの最後の戦いが始まった。村を守るため、その村をまとめ築いてきたヒムカいや姉を守るために…。
その姉から貰った青い管玉の力なのか、自分には到底無いはずの不思議な力が備わっていた。

タケルは、敵を丘の上まで誘い、漲る力で敵を次々と倒していった。
「あと一人だ、いくぞ!」と自分に声をかけ、向かっていた。

激しい戦いは終わり、ヒムカの村は守られた。何人もの怪我をした男たちが、物見櫓の下に集まり、老婆が祈りと呪文をかけている。そして、その櫓の真ん中には、ヒムカが立っていた。ヒムカは、勇敢に戦った男たちをねぎらい、それを支えた女たちに優しく声をかけていた。しばらくして、ヒムカも老婆も村人も、弟のタケルがいないことに気付いた。

タケルは、小高い丘の側で倒れていた。最後の敵と相打ちになったのである。倒れている側には、青銅の剣と青い管玉が首からはずれ繋いであった紐も切れてバラバラに落ちていた。
ヒムカは、タケルの顔を見て、涙を流しながら「しっかりして!お願い目を開けて!」と何度も何度も体を揺さぶりながら声をかけ続けた。王になって、こんなに近くで弟の顔を見るのは、初めてだった。

そして、タケルは、ゆっくり目を開けた。

そこには、さっきまでの風景ではなく、いつもと変わらない自分の部屋の中だった。目の前には、母親の顔があった。怖い夢を見てうなされもがいていたらしく、その声と音に心配しておこしにきてくれたのだった。
少年は、そこで夢を見ていたことに気づいた。あまりにもリアルな不思議な夢だったけど、その夢のことは、親にも友達にも話さなかった。

そして、一週間が経ち土曜日の昼過ぎ、いつもの友達がまた遊びに行こうとやってきた。この前のあの丘のところで遊ぶことになり、皆んなで向かった。
しかし、そこにはもう入ることが出来なかった。立入禁止の看板が立っていて、柵で囲まれていた。そこからは、二つの甕棺が発掘され。一つは、女性だろうと思われる人骨が埋葬され、勾玉や鏡などの副葬品と腕には貝殻をくり抜いた腕輪をしていた。もう一つには、たくさんの青いガラス製の管玉と剣だけが埋葬されていて、人の骨は入っていなかった。

もともと埋蔵文化財があると思われていた場所だったのである。

次の日の新聞に大きく記事が載っていた。邪馬台国は九州にあった?という見出しと甕棺から青銅製の剣と青いガラス製の管玉が12個出土したが、その中には埋葬された人骨が入っていなかった。それが謎であるということと、剣には戦った跡が残っていたらしく、管玉は戦った勇者が身に付けていたはずだが、数がおかしいと書かれていた。普通は奇数で、勇者の階級によって、7、9、11、13個なのだと考古学者の持論も書かれていた。

少年は、その記事と一緒に乗っていた写真を見て、ある物を思い出した。そして、慌てて自分の部屋に戻り、机の引き出しを開けた。そこには、前に遊んで怪我した時に咄嗟に握りしめていた物が入っていた。
それは、割れてはいたが、あの発掘された青い管玉と同じ物だった。
そして、またそれを握りしめた。すると一週間程前に見た夢が頭の中を駆けめぐりはじめ、胸が高鳴って行くのを感じ、思わず「うぉぉぉ!」と叫んでしまった。
その声が聞こえたのか、母親が部屋に入ってきた。「どうしたの!そんなに大声を出して!」と聞かれ、「いや、な、何でもない…」と冷静に答えた。

そして、母親は、入院している姉の話を始めた。
「熱も下がりだいぶ良くなったみたいだから、お見舞いにでも行ったら…。一度も顔を出してないでしょ。」
「分かったよ。行くよ。気になる事もあるし…。」
「気になるんだったら、早く行けばいいのに…。」と、母親との会話を終えて、姉が入院している病院へ向かった。

姉は、ひと月ほど前に、あの丘のそばで怪我をして足を骨折した。怪我したところからバイキンが入ったらしく、高熱が出たのでそのまま入院することになってしまった。でも今では、骨もつながり、熱も下がったので、退院も近いようだ。

病院に着き、姉の病室へ向かった。個室のドアを開け中に入った。姉は、ベッドの上で身体を起こして新聞を見ていた。

「姉ちゃん…」と声をかけた。
「遅いなぁ、来るのが…もうすぐ退院するのに…」と、元気な姉の声に少しホッとした。
「ゴメン。あっ、これ…」とポケットに入れていたあの青い管玉を取り出し、夢の話しをしようと思った。
「僕の宝物にしょうと思ったけど、姉ちゃんにやるよ!それと、不思議な夢を見たんだ。」
と言って、手の平に乗せて差し出した。

姉はびっくりした顔をして、病室のテレビ台の引き出しを開けて、何かを掴み取り出した。それは…

「タケル!守ってくれてありがとう!」

「ヒ、ヒ、ヒムカ…。」

引き出しから出てきた物は、少年が持っている物と同じ青い管玉だった。それも、二つをつなげるとちょうど一つになり、13個目の管玉だったのである。

姉は、自転車で丘の下の小道を通って、転んだ時に片方が割れている青い管玉を拾っていた。
そして、少年が同じ片方の割れた管玉を拾い、その日の夜、姉も少年も同じ時間に同じ夢を見ていたのだ。

発掘された墳丘墓の女性らしい甕棺に入った人骨は、卑弥呼よりももっと歳上のものらしいと考古学者は言っている。
いまだに発見されていない卑弥呼とその弟は、何処に眠っているのだろう。

秋から冬へと季節は変わろうとしている。
今年最初の灯油の買出しに行き、倉庫に片付けていたファンヒーターを引っ張り出してピカピカ磨いた。
19時の開店と同時にヒーターのスイッチを入れ、店内はちょうどいいくらいに暖まっていた。

ギィーと重い扉の開く音に反応し入り口に体を向けた。
「いらっしゃいませ!」
『こんばんは・・・。』と女性から声がし、その後ろから二人の男性が一緒に入って来た。
『マスター!こんばんは!』
「おやおや、この時間に珍しいじゃないですか。それに3人というのも・・・。」
『まぁ、こう言う日もありますよ。』と、いつもの常連さんが、いつもの角の席に座り二人もその横に座った。

「初めまして。」と最初に女性からオシボリを渡し、コースターを三人の前に置いた。
『暖かい・・・。』と女性から声がした後、もう一人の男性からも声が聞こえた。
『スゴイ。大人の店ですね。先輩!』
『マスター。この二人は僕の後輩で、“BAR”に来るのは初めてなんですよ。だから色々と教えてやってください。』
「はい。かしこまりました。あなたも一緒に・・・ですね。(笑)」
『ぼ、僕もですか?』
「当たり前じゃないですか!ちょうどいい機会ですからね。」
『じゃ、よろしくお願いします。』と常連さんの言葉のあとを追いかけるように二人からも声がした。
『私、この店のこと聞いてはいたんですけど、敷居が高くて・・・。でも、来れてうれしいです。よろしくお願いします。』
『お、俺は、居酒屋しか行ったことが無くて、酒のことはほとんど分かりません。というか、あんまり興味が無くて・・・。』
「まぁ、最初はそんなモンですよ。これから“お酒の楽しさ”“BARの良さ”を感じていただければいいと思います。」といって、二人の前にメニューを出した。

「さて、最初は何にしましょうか?」
『マスター。僕はいつもの・・・。』と常連さんから声がし、すかさず、もう一人の男性から声がした。
『先輩、カッコいいじゃないですか!どれぐらい通うと“いつもの”って言えるようになるんですか?』
『そんな話しはまだ後からだよ。』とすぐさま常連さんが返した。
『俺、メニュー見ても全然分からないし・・・。』
『私も・・・。』

「じゃぁ、先ずは“いつもの”を三杯つくりましょう。」と答えて、常連さんがいつも飲んでいる“ハイボール”をつくり、それぞれのコースターの上に運んだ。
「はい。どうぞハイボールです。」

『どうだい、僕がいつも飲んでいる。“ハイボール”は?』
『先輩、美味いスね。しっかり味があるし、何か“大人のハイボール”って感じがするね。』
『私には、ちょっと強すぎるみたい。でもこの清涼感は嫌いじゃないですよ。』
『せ、先輩、ハイボールって何ですか?』
『それはね。ウイスキーのソーダ(炭酸)割りのことだよ。ね、マスター。』

「はい。その通りです。いつも飲んでるだけあって分かってますね。でも、少し付け足せば、一般的にはウイスキーのソーダ割りのことですが、ベースはウイスキーじゃなくてもいいですよ。それにソーダもジンジャーエールやコーラのような炭酸飲料ならOKです。」
『へぇ、そうなんだ。』と男性から声がした。
そして、しばらくした後、三人はハイボールを飲み干し、女性がメニューを見ながら話しかけてきた。
『あのう、メニューに“ショートドリンクス”“ロングドリンクス”ってあるのは、どう違うんですか?』
「いい質問ですね。あなた方の先輩からはなかった質問ですよ。」
『ちょっと、マスター!僕には、メニューなんか出した事がないじゃないですか!』
「そうでしたっけ・・・。」
『先輩、それってグラスの大きさじゃないですか。』
『おお、そうかも・・・。で、何ですか?マスター。』

「お答えしましょう。その前に、お代わりをしましょうか?難しく考えなくてもいいんですよ。好みをお聞きしましょう。」
『じゃぁ、私は、サッパリしてて、さっきのみたいに炭酸が入ったのがいいです。』
『俺は、甘くて、強くてもいいよ。』
『僕は、同じ物を・・・。』
『先輩!違うのを飲んで下さいよ。』
『僕は、ハイボールが好きなの!』

「はい。では皆さんに、二杯目をおつくりしましょう。」と言ってバック棚を見渡した。
冷凍庫からウオッカを出しカウンターの上に置いた。バック棚からはブランデーとカカオのリキュール、そして、アードベッグ10年(シングルモルトスコッチウイスキー)を取り出し、同じ様にカウンターの上に並べた。

女性には、ロングドリンク、男性にはショートドリンク、いつもの常連さんには、違うウイスキーでハイボールをつくることにした。
まず、冷蔵庫から冷しておいたタンブラーを出し、その中に8分の1にカットしたライムを潰しながら入れ、氷を加え、ウオッカを注ぎトニックウォーターを満たして軽くステアしたら出来上がりだ。
それを女性のコースターの上に運んだ。

次に、シェーカーを取り出し、その中にブランデーとカカオ(ブラウン)のリキュールを入れ、冷蔵庫から生クリームを出して加えた。シェーカーに氷を入れ、少し長めにシェイクし冷しておいたカクテルグラスに注ぎ、男性のコースターの上に運んだ。
そして、冷蔵庫から出したタンブラーに大き目の氷を2個入れ、そこにアードベッグ10年を注ぎソーダを満たし軽くステアして、いつもの常連さんの空のグラスと入れ替えた。

「はい、どうぞ。ウオッカ・トニックとアレキサンダー、そしてアードベッグのハイボールです。」とそれぞれの飲み物を指して答えた。
『私のは、ウオッカ・トニック。サッパリしてて美味しい。』
『俺のだけ、量が少ないなぁ・・・。』と呟き、一口飲んでまた声がした。
『お、おぅ。美味い!けど強いですよ。先輩は、またハイボールですね。』
『だから、ハイボールが好きなの!』と答えて、一口飲んだ。
『な、何だこの香りと独特な味は?今まで飲んでいた物とは全然違う。でも、美味い。』

「どうですか。それぞれ美味しいでしょう。特に、そのハイボールは、私が大好きな物です。癖になりそうな味でしょ。」
『ホント、そんな感じがする。次から“いつもの”って言ったらこれにして下さい。』
「はい。かしこまりました。」

「ところで、質問の答えですが・・・。」
『マスター!美味いからもうどうでもいいよ。』
「そういう訳には行きませんよ。ちゃんと勉強してもらわないと・・・。」

「まず、ロングドリンクスとは、今お出しした“ウオッカ・トニック”と“ハイボール”のような飲み物の事です。氷が入っていて、長い時間楽しめるカクテルなんですよ。」
『長い時間ってどれくらいですか?』と女性からまた質問があった。
「いい突込みです!その時間は、氷が解けてしまわない内に飲んでしまう時間です。」
『そうなんだぁ。』
「次に、ショートドリンクスとは、“アレキサンダー”のようなカクテルグラスでお出しする氷が入らないもので、短い時間で飲んでしまうものなんですよ。」
「さて、短い時間ってどれ位の時間でしょう?」
『私のより、量が少ないから・・・。』
『俺には、分からないけど、すぐに無くなりそう。』
『で、マスター、答えは。』と最後に常連さんから声がした。

「はい。ではショートドリンクスは、冷えてよく混ざっているカクテルなんです。その冷えて混ざっている一番いい状態で飲んでしまう時間なんですよ。」
『そうか、強いからってチビチビ飲んでいると美味しくなくなるからですね。』
「その通りです。後輩さんたちは、理解が早いいい生徒さんですね。誰かと違って・・・。」

『もう、マスター!僕だって分かりましたよ。ハイボールにはもっと美味いものがあったってことが・・・。』
「そうですよ。同じ物でもベースを変えたり、カクテルも色々飲んでみることですね。そうしたら、自分の好みに合うものが見つかるはずです。バーテンダーはその案内役なんですよ。」

『俺、居酒屋も好きだけど、BARも好きになりました。カクテルも美味いけど、何か居心地がいいというか。空気がいい感じがする。』
『そうね。私も同じことを感じてました。そして、分かりやすく説明してくれたマスターの喋り方がいいと思いました。』
『おいおい、みんな、今日一日で分かるか。BARの良さが・・・。もっと通うと本当に分かるんだよ。』
「まぁまぁ、あなたもやっと分かったんでしょ! でも、今日だけでもBARの良さを感じてくれてよかったと思っています。」

『先輩、ありがとうございました。連れて来てくれて。』
『私も、常連になってもいいですか?』
「もちろんですよ。またのお越しを楽しみにしております。」
『マスター。今日はお世話になりました。また、よろしくお願いします。』
「こちらこそ、ありがとうございました。」

最後に、BARは食事をした後もう一軒行きたいと思ったときに選んで欲しいお店です。美味しい食事で満足されたお気持ちを更に高めて、その日が本当にいい一日となるための場所だと思っています。お酒はもちろん会話や非日常的な空間で癒されていただくために一生懸命お客様に尽くして行きたいと思っております。

嫌な梅雨も終わり、本格的な夏が到来である。今日といい、ここ連日の猛暑は何とかならないものか。
そんな暑さも全然関係ないような涼しげな顔のいつもの常連さんが、相変わらず一人、いつもの席に・・・。

『マスター!他にお客さん来ないね!』
「もうすぐ、閉店時間だしね・・・。それと毎日この猛暑続きじゃねぇ・・・。」

「グラスが空だけど、お代わりは?」と言いながら、アードベッグ10年のボトルに手を伸ばそうとした時に、店の扉がゆっくり開いて、一人の女性が入って来た。

『マスター。まだいいですか?』
「はい!まだ、営業時間内ですよ」と答え、カウンターの真ん中に案内した。

その女性は、細身の身体に、髪は、肩に届くくらいのストレートで、なかなかの美人である。

『会社の人と飲んでたんですけどね、まだ飲み足らなくて・・・。』
「こんな時間なのに、飲み足らないとはねぇ、相手に気を使い過ぎたんですね。」
『えぇ、ちょっと疲れましたね・・・。そうそう、この店は、前から気になってたんですよ。なかなか勇気が出なくて・・・。』

『でも、今日は、思い切って扉を開けてみました。』
「それは、どうもありがとうございます。で、何をお飲みになりますか?」

『カクテルを飲みたいんですけど、私ね、紫色が好きなんです・・・。』
「かしこまりました。」と伝え、冷凍庫からジンを出し、バック棚からバイオレットのリキュールを取り出し、女性の前に並べた。
シェーカーにその二つを入れ、絞りたてのレモンジュースを加えた。
静かな店内に響くシェーキングの音。暑さを忘れさせてくれる音である。そして、これが本来のバーの姿なのであろう。

「はい!どうぞ。」と女性の前のコースターの上に差し出した。と、同時に、常連さんのお代わりのことを思い出した。

「すみませんね。すっかり忘れてましたよ・・・。」
『女性が来るとこうなんだよな。まったく・・・。早く、アードベッグをちょうだい!』
「なにも、怒らなくても・・・。少し量を増やしてあげますよ。」
『当たり前です!』

『ところで、マスター、こんな時間に珍しくない。女性一人は・・・。』
「そうですね。」と言い終り、女性の方へ戻った。

『ブルームーンですよね?』と半分ほど飲み干したグラスを見つめたまま呟く声がした。
「よく分かりましたね。そうですよ。」
『美味しいですよね、好きな味だし、香りも色も私好みなんです。』
『ほかの店でもよく飲むんですけど、ここのが美味しい・・・。』
「気に入っていただいて、ありがとうございます。」

「ところで、どうして、ブルームーンというかご存知ですか?」
『水面に映った月の色がそういう風に見えるところから・・・。でしょ!』
「よくご存知で・・・。」
「もう一つ、材料のバイオレットリキュールにも意味があることは・・・?」
『他にも意味があるんですか?』

「実は、バイオレットのリキュールの名前は、“パルフェ・タムール”と言うんですよ。」
『フランス語・・・。“完全なる愛”ですか・・・。』
「そうですね。パーフェクト・ラブなんです。」
と、会話が終わり、しばらく沈黙が続いた。その静かな空気をかき消すように、いつもの常連さんから声がかかった。

『マスター!何か見つめる目がいい雰囲気に感じるんだけど・・・。』
「ほぅ、あなたにもそういう感覚があったんですね。」
『失礼じゃない!僕にも分かりますよ。マスターに恋してるんだ・・・。きっと・・・。』

「違います!やっぱり分かってないじゃないですか!」
「あのカクテルの先に、見えているんですよ。愛しい人が・・・。」

『マスターしか見えないけど・・・。』
「・・・・。どこ見てるんですか!」と、常連さんともめていると、小さな声が聞こえた。

『マスター。美味しいカクテルありがとう・・・。』
『このカクテルは、別れた彼に教えられたんです。その時は、気付かなかった・・・。ずっと、待っててくれてたんですよ。でも・・・。』と、そこで声が止まってしまった。

しばらく、言葉が見つからなかったが、その女性の目に映る“ブルームーン”が本当の意味を教えてくれた。

水面に映る月じゃなかったと言うことを・・・。

想いを告白するその瞬間、目の前にいる、女性の目に映る月の色がそういう色に見えたに違いないということを・・・。

『マスター!帰ります。』
「ありがとうございます。お気を付けて・・・。」と扉を開けて女性を見送った。

『うっ、うん!』と咳払いする声に、いつもの常連さんの前に戻った。
『マスター!もしかして、一目惚れ!』
「ち、違いますよ!」

「ブルームーンの本当の意味が解ったんですよ!」
『僕にも教えてよ!』
「あなたには、理解できないことです!」
『なんで〜・・・。』

4月も半ばに入り、桜の季節も終わり、転勤や入学などの行事に追われたことなど遠い昔のように落ち着いた日々に戻ってしまった。4月は、桜の満開にあわせて、華やかに感じる月でもあるが、その後が妙に寂しいものである。

こういう日には、おおよそ決まって、いつもの常連さんがお見えになるはずなのだが…。
と考えていた時、扉のギィーときしむ音とともに、一人の我体の大きい男が『よぉ!』と声をかけながら入って来た。
「いらっしゃいませ!なんだぁ・・・、どうしたの重ちゃん!」
『なんだぁはないだろう!びっくりした顔して・・・。まったくだなぁ・・・。』
「ごめん、ごめん。いつもの常連さんかと思って・・・。」と呟きながら、カウンター真ん中の席に案内し、おしぼりを出し、コースターを彼の前に差し出した。

彼は、小学校から高校までが同じで、私と同級生である。昨年の大晦日のカウントダウンに、来てくれて、それから三ヶ月ぶりのご来店だった。

「久しく顔を見てなかったけど・・・。元気だった?」
『それがさぁ、終わっちゃったよ!』
「何が、終わったの?」
『恋だよ、恋・・・!』
「恋、ですか!」となんだか話しが長くなりそうな気配・・・。

「で、何にしましょう?」とひとまずBARの空気にもどすことにした。
『おっ、目の前に、シャンパンが冷えてるじゃない。いただこうか。』
「はい、かしこまりました。今週は、モエのブリュットです。」とこたえ、背の高いシャンパングラスに注ぎ、彼のコースターの上にそっと運んだ。

彼は、グラスを手に取り、ひと口流し込んでコースターにグラスを戻した。
『美味いな・・・。やっぱり・・・。』に、付け足したように『山ちゃんも飲んだら?』との声に「喜んでお付き合いしましょう!いただきます!」とグラスを口に運び一口飲んだ時に、扉の開く音に振り向いた。

「いらっしゃい・・・。」いつもの常連さんである。
「もう、今日はフェイントですか?」
『フェイント?』
「いやいや、こっちの話しです。すみませんね」
いつもの席に腰を落ち着かせ、まずはいつものアードベッグ10年のストレートをコースターに乗せ、常連さんの前に差し出した。

『めずらしいじゃない。僕より先にお客さんがいるなんて。』
「それですよ。フェイントは・・・。」と小声で言い終わり、同級生の彼の方へ戻った。

「で、恋が・・・、どうしたの。重ちゃん」
『それがさぁ、1軒いい店を見つけてね、しばらくそこに通っていたんだ。』
「へぇー、いい子がいたんだね・・・。その店に。」
『短大生のバイトで、いい子なんだよ。保母さんになるんだって、頑張ってたなぁ。惚れちゃってさぁ、好きなシャンパンをいっぱいご馳走してあげたよ・・・。』

『ドンペリのロゼやパイパーのロゼ。一晩で5本も開けたときもあったよ。』
「ちょっと、お金使いすぎじゃないの!うちの店でもそれぐらい使って下さい!ドンペリのロゼはないけど、パイパーのロゼは、うちにもありますよ!」
『じゃぁ、おかわり、ロゼを飲もうか!山ちゃんもどうぞ!』
「もちろん、いただきますよ!飲まないと付き合えそうにないからね・・・。」
『はいはい、わかったよ・・・。』
「ところで、どこに惚れたの?娘ぐらいの歳でしょう?」
『初めてその店に入った時がさぁ、スッチー(客室乗務員)の格好しててさぁ。似合ってたよ、とっても・・・。たまに、メイドの格好もしてたけど、ありゃまずいな・・・。』
「そういう店なんですか!スッチーの服に惚れたんだ!」
『違うよ!普通の子で純粋で、ほんといい子なんだって!一緒に写真撮ったのがあるから見せるよ!』と言いながら、背広の内ポケットから携帯を取り出した。

「へぇー、ほんとにいい子そうじゃない!それに、かわいいし・・・。」
『だろう・・・。』と彼が返した時に、『マスター!』といつもの常連さんから声が飛んで来た。

「すいませんね。気付かなくて!で、次は、何にしましょうか?」
『シングルモルトじゃないのがいいな。僕にも、あのロゼを出してよ!色がなんとなく、春らしくて、シャンパン飲みたくなっちゃってさぁ・・・。』

「・・・。わかりましたよ!あなたにも、早く春が来たらいいですね・・・。」
『よけいなお世話だよ!』

「はい、どうぞ!」と常連さんのさっきまでアードベッグが入っていたグラスを下げ、ピンク色のシャンパンを入れたグラスをそっと置いた。

『いい色してるね!ほう・・・、美味いね。春の味がするね・・・。』
「何を言ってるんですか!」
『合わせてるんです!そっちの話しに・・・。』
「ありがとうございます!お気使いいただいて。」と返し、彼の方へ顔を向けると、急におとなしくなっていた。

「何か、寂しそうに見えるよ。急にどうしたの?」
『もう、会えないんだよ。彼女に・・・。卒業してしまってさぁ・・・。バイトも止めたし、実家のある熊本に戻って、もう保母さんやってるみたいだよ。』
「ホントに惚れてたんだね。でも、楽しく過ごせたことには違いないし・・・。」
『楽しかったよ、確かに。3ヶ月間、シャンパンばっかり飲んでたなぁ・・・。それも春色のね・・・。』

「今日の、そのロゼで、春色のシャンパンも卒業したほうが・・・。」
『そうするよ。飲むと思い出すしね・・・。』と落ち着いた声で話しをしていた。

しばらくの間、静かな雰囲気のいつものBARらしい空気に戻り、いつもの常連さんもいつの間にかシャンパンを飲み干していた。

『マスター、今日は、先に失礼しようかなぁ』といつもの常連さんから先に声がかかった。
「めずらしいね!先に帰るなんて!」
『ちょっと、行ってみたい店があってね。』
『マスターの同級生の話しを聞いてたら思い出してさぁ・・・。』
「えっ!」
『4月も半ば過ぎ、入学式も終わってるし、新しい短大生が入ってるてことでしょ!』
『春色になりに行ってきます!』

『お兄さん!俺も行くよ!』と、さっきまで沈み込んでいた同級生が叫んだ。
「重ちゃんは、卒業するんじゃなかったの!」
『卒業したから、入学するんだよ!』

「ちょっと!二人とも!しょうがないなぁ・・・。」

「もう!今日は、これで閉店しよっ!」

「間に合うかなぁ・・・。入学式に!」

今年は寒い日が多いような気がする。3月の半ば、春一番も吹いて暖かくなってもよさそうなのに、真冬並みの寒さである。

『マスター!こんなに寒いと他にお客さんは来ないんじゃないの!』といつもの常連さんがいつもの席でアードベッグ10年のストレートを一口飲んで問いかけてきた。
「そう、こんなに寒い日は、あなたぐらいですよ!飲みに出るのは!」
『悪かったねぇ…。』とつぶやいた時に、「キィッ」とドアの開く音が…。
この場所に移転してもうすぐ7年になる。
分厚い木のドアも重さで歪み、きしむ音がしだした。

「いらっしゃいませ」珍しく女性が一人である。
どうぞ、こちらの方へと、常連さんとは反対のカウンター角の席へ座っていただいた。
女性一人というのは、あまり慣れてないせいか、ちょっと緊張してしまう。
オシボリをお出しし、その女性の前にコースターを置いた。

『マスター。憶えてますか?』の声に、「えっ!」と返して真剣な目で顔に視点を合わせた。「あぁ…。A子ちゃん?」 少し顔が細くなったけど、間違いなくA子ちゃんである。
『よかった!憶えてくれていて…。』

彼女は、10年ほど前に高校の同級生と結婚して佐賀を離れていた。もっと逆上れば、その当時同じ会社の上司とよく一緒に飲みに来ていた。まだ店を移転する前のことだが…。
私もまだ独身だった頃である。彼女は、20代半ばだった。感じのいい女性で、カウンター越しではあるが、密かに好意を寄せていたものだ。
当時は、彼女が先に来て、上司を待つことが多かった。その上司を待つ30分ほどが、私にとって最高の時間となっていたのである。

「佐賀に帰ってきたんだ?」
『そうじゃなくて、実は父が亡くなって・・・、昨日が四十九日だったの、今日まで佐賀にいて明日帰ることにしたから・・・。それよりも・・・。』

「それよりも?どうしたんですか?」
『あの頃、ずいぶんお世話になったな・・・、なんて思って・・・。』

「そんなにお世話したかな?」
『マスターのお店のお陰で、いい思い出をつくることができたしね。あら、ごめんなさい!オーダーもしないで話しに夢中になってしまって、何かカクテルをもらおうかな?』

「ハイ、かしこまりました。とっておきのカクテルをお創りしましょう。」

佐賀には、“さがほのか”という美味しいイチゴがある。ちょうどこの時期が旬で、それを使ってカクテルを作ることにした。

「どうぞ!さがほのかを使ったカクテルです。」
『綺麗な色に、イチゴのいい香り・・・。』『お・い・し・い!』
「美味しいでしょう!」
ラムをベースにイチゴを潰して加え、フランボァーズとレモンを少し入れてシェイクしたものである。店のオリジナルに“TOMADOI(戸惑い)”というカクテルがある。
それに“さがほのか”を潰して加えてアレンジしたものだ。

『マスター!このカクテルの名前は?』
「な!名前ですか?んー。ほのかな想い・・・、かな?」
『“ほのかな想い”かぁ、いい名前・・・。』

あの頃の彼女に対するカウンター越しの想いをカクテルにしたなんて、とても口には出すことは出来ない。

『マスター。ありがとう。気を使ってくれて・・・。』
「そ・そんな、大した気は使ってないですよ。」と言ったところで、常連さんの方へ目を向けると、グラスは空になっていた。

『マスター!とっくにグラスは空になっていたのに・・・。気付いてくれないんだから!今日は、なんだかマスターが遠く感じるなー。』

「どうも、すいません。おかわりしましょうか?」
『僕は、こんなにこの店に通っているのに、まぁ、ここに移転してからの客だけど・・・。とっておきのカクテルなんか出してもらったことがないよね。僕も、イチゴ好きなんだ・・・。』

「わ・分かりましたよ!確か、ジンも好きですよね。」

今日は、自分でも店の空気が違うと感じていた。こういう日に常連さんと、昔、ほのかに想いを寄せていた女性と二人だけというのは、どうも仕事しにくいものである。

「はい、どうぞ!」と常連さんもイチゴを使ったカクテルをお出しした。カクテルグラスに“さがほのか”を一粒入れて、よく冷やしたジンを注ぎ、ほんのちょっとトニックウォーターを加えたものである。

『マスター!イチゴを丸ごと入れたカクテルなんて見たことがないよ!これって、手抜きなんじゃないの…。』

「まぁ、そう言わずに飲んで下さい!中のイチゴはタテに4つに切れてるから、一切れずつ食べながら飲むとうまいよ!」

『本当かよ!』と言って、イチゴを一切れ口に放り込み、食べながらジンをすする音がした。
『ほぉ…。うまいじゃないこれ!』

「でしょう!」
『イチゴとジンって合うんだね。』
「“さがほのか”だから合うんですよ!適度な酸味があるからいいんでしょうね。」

『ところで、名前は?』
「名前ですか!“いちごいちえ”と言うのはどぉ?」
『“一期一会”!』
「いえいえ、“いちご一絵”です。」

『ん…。まったく親父ギャグじゃないですか!』

「そう言わずに、美味しいでしょ!」

『確かに!』と常連さんが返した時に、「マスター!」とキレイな声がした。

「すみません!ほったらかしにしてたわけじゃないんですよ。」と返事をし、彼女の前へ条件反射のごとく動いた。

『最後に、もう一杯だけ飲ませて下さい。ほのかなあの頃に浸りすぎたみたい・・・。』
「そうですか。で、何にしましょう?」

『X.Y.Z(エックス・ワイ・ジィ)をつくってくれますか?』
「・・・。かしこまりました。」

このカクテルは、ラムにコアントローとレモンジュースを加えてシェイクするものだ。その名前から究極のカクテルと言われるもので、彼(彼女の上司)がよく飲んでいたものである。彼にとっては究極の女性だったに違いない。
しかし、彼には、妻も子供もいたのである。お互いの許される時間をBARで一緒に過ごすことが二人にとっての唯一共有できる時間であり、思い出を作るひと時となっていた。
私のほのかな想いなど入る隙間などなかったし、彼女が気付くはずもなかったのだ。

「はい、どうぞ。」とさっきまで“ほのかな想い”が乗っていたコースターの上にそっと差し出した。

『マスター。ありがとう。』と言った後に一口飲み、数秒の間をおいて『こういう味だったんですね。』とつぶやいた。

「いつも、これを飲んでらっしゃいましたね。」と私が言い足しあと、「X.Y.Zの名前から“究極の”という意味があるんですよ。」と加えた。

『そうだったんですね・・・。』しばらく沈黙が続き、常連さんの何かブツブツ言う声だけが聞こえていた。

『でも、これでよかったんですよね。』
「はい、私もそう思います。」

『マスター。今日は、来てよかった。』
「ありがとうございます。」

彼女をドアの外まで見送って、店の中に戻った。

『マスター!なんか空気が重かったけど…。』と常連さんの声がした。

『ねぇ、僕にも“X.Y.Z”を飲ませてよ!僕にとっての究極は、この店にいつも一人でいることかな!』
「そうですか?そうそう、言い忘れていたけど、このカクテルには、もう一つ意味があるんですよ。“これで最後”という意味がね…。」

『じゃ、さっきの彼女のカクテルは・・・。』
「相変わらず、ニブイネ。思い出は、今日で終わりにしたかったんですよ。」

「ところで、そのカクテルで“最後”にして下さい!今日は、早閉まいするから!」

『そんなぁ!』
「私は、よその店で“X.Y.Z”を飲んで帰ります!」
『僕も、付き合います。』
「・・・。一人にさせて下さい!」